死を想う〜初めてペットのフェレットの死に立ち会って〜
大体半年に一回くらい更新するでおなじみのこのブログです。おげんきですか。
本来であれば新型コロナウイルス感染症の大流行という、大パラダイムシフトでの過ごし方や見られなくなったエンタメへの嘆き、 あとどんな浪費をしたかのまとめくらいを書いておきたかったのだが(この記事を書いたら書きたいんだ)、 どうしても、今回ちゃんと文章に残しておきたかったので、こうして書いている。
多分めっちゃ長くなるので目次
記事概要(誰に向けて書いているか)
2020年8月9日、ペットのフェレット、銀ちゃんが永眠した。だいたい、享年7歳半。多分死因はインスリノーマから引き起こされる低血糖。 約一日ほどかけた、死への旅路を、横で見守った。
後々、Twitterを漁っていたら、どうやらこのブログ(当時ははてなダイアリーだったな、懐かしい)で彼のことを書いていたらしい。 名前をつけるということ - おどらにゃそんそん 自画自賛であるが、7年前のそわそわした気持ちが蘇ってくる、どこかこそばゆい、でも嬉しさの伝わってくるいい文章だなあと思った。
そんな彼の、死への旅路をみつめて、思ったことをまとめていきたい。
想定読者(?)は以下の4パターン。
- 彼と同じく、低血糖のフェレットの死に立ち会う予定の人。
- 今ペットを飼っていて、死んだあととかにどうなるかちょっと覚悟をしておきたい人。
- 他者の死に立ち会った人間、筆者ががどういうふうに想うのか、知りたい人。
- 暇で、長くて、湿っぽい文章を読みたい人
何より、私が読み返したいから、まとめておく。
フェレットの死への旅路の詳細(低血糖のときの症状)
一応対象読者は「フェレットを飼っている人」です。 長いですが、ある程度詳細に、「こういう事例もあったんだ」というのを感じてもらえたら嬉しい。
「フェレット 低血糖 最期」で検索すると、壮絶な最期を……というのでとてもビビっていたが、 私は受け止められたくらいの、壮絶さだったというのを先に書いておく。
8月7日までの様子
前提として、彼はずっと胆嚢を悪くしていて、さらに一昨年くらいからインスリノーマを発症していた。 いろんな薬を与えていた。 フェレットは、そもそも病気になりやすい生き物で、特にインスリノーマはなりやすい。 インスリノーマは糖尿病の逆で、血糖値が下がりやすくなってしまう病気。 なので、しょっちゅうご飯を食べる必要があった。
「できれば数時間に一度、頻繁にご飯をあげてください」とずっと主治医さんに言われていた。家族構成は私、夫、フェレット、猫2匹。 私も夫もIT業界勤務のフルタイムワーカーで、そんな頻繁にあげられるわけがなかった、申し訳ないけれども。と思っていた。 そこにやってきた、新型コロナウイルスの流行。こういってはなんなんだけれども、コロナのおかげでほぼフルリモートワークになり、 銀ちゃんの介護がちゃんとできるようになった。本当に、それはありがたかった。(きっとそういう人、いっぱいいるんだろうな) 仕事は二人して二階だったが、トイレは一階で、トイレに行く度に様子を確認していた。
多分2020年の3月に、一度低血糖の発作と思われる状態になっていた。その時は、高栄養のペーストを口の周りに塗ったくり、 シリンダーで口の中にいつもあげている缶詰を入れて、なんとか一命をとりとめていた。一応、その後病院に行き、点滴をしてもらっていた。
だんだんと、7月くらいかなあ。後ろ足が動かなくなっていった。歩こうとしても足がすかすかして、うまく動いていなかった。 足が動かなくなったせいだろう、トイレにたどり着く前に粗相する回数も増えていた。
夫とも、「自分で食べられなくなったら、もう諦めよう」という話はしていた。
8月に入って、食欲ががくっと落ちた。本当にちびちびとしか食べていなかった。それまでの4分の1も食べられていなかったと思う。 前から、人間の指や匙で口の前まで持って行くと「これ美味しいんだな」というのが想起されるのか、皿の方の食事も食べる、みたいな状態だったのだが、 8月に入ってからは指、匙のものも全部は食べ切れず、それきりになっていた。 なので私は前よりも頻度を上げて、大体2時間おきくらいに私がトイレいったり外出たりして寝室の近くに行っていたので、その度に指で口の前にもっていって食べさせていた。
毎朝彼にご飯をあげる役は私がやることが多かったのだが、最後の一週間、ドーム状のベッドの中が、前よりも少し冷たいなと感じてはいた。 また、8月5日、変な便が出た。いつもより赤っぽい色だった気がする。それで動物病院に連れて行っていた。 主治医の先生からは便に特におかしい様子はないが、胃腸が弱っているのかもしれないと更に整腸剤と下痢止めが処方されていた。 「少しでも長く一緒にいたいのなら、食事が細くなっているのなら、シリンダー等でこまめにごはんをあげてください」とも言われた。 そうだよな長くはないよな、と思った覚えがある。
8月8日。死への旅路への始まり。
そして8月8日。山の日込の三連休初日。朝からあんまり食べなかった、本当にちび、ちび、となめる程度。 私は朝9時からAmazonPrimeでアンナチュラルを一気観し、昼からぐらんぶるとかいうアホ映画を見た。 帰ってきたのが17時半すぎで、一度銀ちゃんのケージは見たっけ。見なかったっけ。覚えていない。 でも、結構気にしながら出ていったから、見に行って、 ご飯食べてないなベッドで寝てるな、ってお皿に残った高栄養のウェットフードを口の前に持っていった気もする。
飯を作る気がしないと宅配寿司を注文して、それの受け取りが終わった19時半ごろ。 銀ちゃんのケージを確認しにいったら、うつろな目をして、ベッドの外の床で倒れていた。
まばたきは全然しない、呼吸に合わせて、お腹のあたりが動くだけ。 二階の夫を呼び、とりあえず、口の周りにペーストを塗ったくった。何なら唇をめくって歯にも塗った。 なめたり、ごくりと喉を鳴らしたりは、ろくにしなかった。 3月の発作もそうだったから、そのときはシリンダーで喉にちょっとずつ高栄養の缶詰を押し込んだが、今回はしなかった。 本当に食欲が落ちていたし、きっと蘇生しても、短いだろう。それなら、看取ろうと話し合って、決めた。
低血糖で調べると、症状が進むと意識もうろうや昏睡等の文字が見える。 多分この段階で、意識はほとんどないのだろうな、そう思わせるほど、反応は薄かった。 とりあえず、何度もなでたが、その日のうちは、ほぼ反応がなかった。
夫と見ているのを交代して頼んでいた寿司を食べたが、人生で最も味気なく、どうでもいい寿司になってしまった。すまない、寿司。 その日一日、アホほど泣いた。もう長くない、というのはわかってきても、どうしようもなく泣けた。
寝たのは12時くらいかなあ。発見から5時間、ちょっとだけ呼吸の回数が遅かったように感じたのと、全身が、少しずつ冷たくなったような気がした。
8月9日。
その日はなかなか寝付けなくて、また、悪夢もいっぱい見た気がする。 4時ごろいちど目を覚ました。銀ちゃんのケージからゴソゴソ音が聞こえた気がした。 トイレの近くになるように移動していたが、トイレに行く前にうんちとおしっこをしていた。 ゆっくりと呼吸するだけで、まばたきやその他の活動はしていなかった。 最後の最後まで、ちゃんとトイレでしようとするなんて偉いな、と周りと体をかるくきれいにし、 また、きっと一度意識がもどっていたようだったのでとりあえず口の周りにペーストをぬったくったが、なんの反応もなかった。
寝直すことができずに、少しピアノを弾いた気がする。こういうときに、イヤホン使える電子ピアノは便利だった。 その後、また6時とかに仮眠をした。 朝方5時とか6時に、少し「きゅーーーー」という鳴き声を聞いた気がする。
フェレットを飼っていない人は知らないかもしれないが、フェレットは本当に鳴かない。 鳴き声を聞いたことがあるのは、足を踏んでしまったときと(そのときはなんともなかった)、たまに寝言で「きゅふ」っというくらい。 あとは興奮時の「くっくっ」というとても小さな音くらい。 なので、めったに鳴き声は聞こえないのだ。 だからこそ、低血糖の最期のときの声に驚く、というのもあるのかもなと思う。
朝9時くらいに目覚める。自分の熱を何度測っても37.3度以上で、何時もより0.5度ちかく高くて驚いたが、きっとストレスのせいだということにしたい。 その段階では静かに呼吸をしているだけだった。あんまり食べてないのに、意外と保ってるんだな、まだ生きようとしているのか。 昨日の時点で無理矢理でも口を開けさせて食料をいれるべきだったのか、とも思った。
10時頃から横たわった状態でたまに手足が動き始めた。犬かきみたいな感じを想像してもらえると、わかりやすいと思う。 10時45分ごろ、「くきゅるるるるうう」という大きな声を出したと思ったら、連続して動く、いわゆる痙攣の状態になった。 口の周りに、よだれというか泡みたいなものも出始めた。 呼吸なのか鼓動なのかまた別の何かに合わせて、前足を犬かきのように一度ばたつかせ、首が後ろにびくっと動き、後ろ足も同様にばたつかせ、が、だいたい一秒ごとに連続して行われた。その1ルーチンが、1分おきとか、30秒おきとかでくりかえされた。 全身が同時にびくびくと連続してのけぞって喚き続けるを想像していたので、そこまで壮絶、とは感じなかった。 「反射」なんだなと思った。 たまに「ぎゅるるるる」「くきゅうううう」と鳴くことはあった。 どんどん首が後ろに行こうとしていたので、何度か首の位置を直しつつ、早くおさまるといいねと願いながら背中等を撫でた。 11時15分ごろ、一度意識が戻ったようだった。一瞬だけ痙攣ではなく、私の手に頭をよせて、まばたきをした。 一瞬だけでも戻ってきてくれたんかな、そばにいるからな、と声をかけながら撫でたが、その後瞬きはしなかった。
これは日記を読み返しながら書いているが、大体うちの銀ちゃんは、10時過ぎから14時くらいまで、痙攣発作をしていたようだった。 7年半もこの世にいて、あの世にいくという「魂の切り離し」が行われるのだから、そりゃあ苦しいよなあ、と思っていた。 最初の動きがまるで犬かきみたいで、頑張って苦しみながら、上へ上へいっているのかな、とも思った。 だから、そこまで壮絶、とは思わなかった。そりゃそうだ、死ぬのだものと割り切れていた。
痙攣が終わったあとはただ静かに呼吸をしていた。時間がたつにつれ、体から熱が抜けていくのを感じた。 ずっと横にいて撫でたりしながら泣き続けるのもなんなので、夫に交代で見てもらったりもしていたが、遊ぶ気にもなれない。 一番しっくりきたのがピアノで、何も考えなくて済むからと思ったけれども、最近練習していた「いつも何度でも」はあまりにもそれっぽくて、 弾きながら号泣していた。いい曲。
16:45くらいかなあ。夫がポテチが食べたいと2階に来た。「結構、体力あったんだねえ」なんて話をしていて、1階に戻ったときに私を呼んだ。 「呼吸が止まってる気がする」と夫が膝の上に横たわらせた銀ちゃんを見せてきた。 アホほど泣いたなーーーと思っていたけど、本当に死んでしまったタイミングでは、まーものすごい量の涙が出てきた。 「もう覚悟してたし」とそれまで涙を見せてなかった夫も泣いていた。
体をふいたりするために持ち上げると、だらん、としていた。完全に魂がなくなると、こんな風になるのか。そう思った。
とりあえずすぐに体を拭き、箱に保冷剤を入れた。 本当にたまたまだが、その日夫がラム肉の塊を注文していて、ほどよいサイズのクール便の発泡スチロールがあったので、そこに保冷剤とともに入れた。 その日のうちに葬儀業者を決めるのと、翌週に入っていた動物病院に亡くなったのでキャンセルで、ということを連絡した。
以上が、死への旅路への記録である。 確かに低血糖の症状で、痙攣と鳴き声は辛いかもしれない。そこはちょっと覚悟をしておくといいのかもしれない。
夕飯は、コンビニで麺類と甘いもの、そしてビールを買って食べた。悲しいが、気は楽になっていた。 熱は、平熱になっていた。 寝る前にお茶を淹れるときに、ご飯をあげるときの木匙が出てきて、泣いた。 寝る前に、保冷剤を交換した。ぐにょぐにょしていた体は、丸まった形で固定されていた。
8月10日。祝日。火葬。
朝熱を測ったら、平熱どころか36度前半で、いつもより0.5度低かった。なんか私からも抜けたんかなと思った。 朝にまた保冷剤を交換した。クール便用のものだったからから、あまり溶けていなかった。 14時ごろに火葬業者がやってきた。今回は移動式の火葬業者にした。 火葬業者には大きく2種類あって、人間同様、火葬場で火葬してもらうのと、トラックの荷台に火葬装置があって、それで火葬するものだ。 業者さんに、どこにします、と普通の路上を提示されて少し驚いた。わりと近くの業者さんだったから、業者さんの駐車場とか行くのかと思ってた。 近所の小学校と中学校の間の道路を指定した。祝日だったので、人通りは少なかった。 トラックが改造してあって、運転する業者さんの他に二人乗れるようだったので、私と夫で乗り込んだ。膝に銀ちゃんの遺体を抱えつつ。 現地につき、少し待つと、「準備ができました」と声をかけられたので、トラックの荷台の方に行った。 白いシーツが敷いてあって、そこにご遺体と、飾り付けをして、最期のお別れをしてくださいと言われた。 お花買ってくればよかったかな、と言われたけど「別に本人が好きだったわけでもないし、大丈夫でしょ」と言われた。 木匙に、ここのところのメイン食料だった缶詰とペーストを入れたのと、昔ちょっと遊んでたおもちゃを入れた。 「毛の一部を残されるお客様もいらっしゃるようですがどうですか」と言われたのでハサミを借りてちょっと毛を切った。 夫が猫やいたちの落ちているひげを集めるのが趣味だったが、このときにひげももらっておけばよかったなと今もちょっと後悔をしている。 最後に何度か体を撫でた。毛は柔らかかったが、手のあたりは固まっていた。ひんやりとしていた。 離れると、火葬を始めます、とガコンと音がして大きな機械の中に入っていった。 近くで待てるとの話だったが、あまりにも暑かったのと、もうすっきりしたかったので、歩いて家に帰って、銀ちゃんのケージを 片付けた。ケージの、ドーム状のベッドの独特の臭いを嗅いで、また号泣した。寝室が広くなってしまった。 30分ほどで電話があり、同じ場所に戻った。こちらがご遺骨です、と白い布をとったら、小さな頭蓋骨と、カサカサした骨があった。 その骨を人間みたいに銀の箸で拾って、小さな骨壷にいれた。ちょっとかわいい布に入れられた骨壷を受け取って、そのままセミがうるさい中、 汗を垂らしながら帰った。
その日のその後は、2時間ほど休憩して、今日はいきなりステーキだ、肉だ、日々の活力は肉が作る、といきなりステーキにいき、 ちょっと買い物をした。まるで「ふつうの三連休」を最後に取り戻すかのようだった。 色々必要なものを買うなどして、ちょっと元気を出した。
以上が、死の旅路への詳細だった。本当にものすごく泣いて頭痛がやまなくてやばかった。 少しでも、フェレットの最期に寄り添う人の情報の足しになるといいなあ。
死後いろいろやったことと、今ペットが生きているうちにやっておくといいこと。
その縁に立ったタイミングで詳細に日記に残しておくといいかもしれない。
上の記録部分はすべて日記から拾って書いている。いろいろな感情が溢れ出ると思うので、文字にして残しておくといいと思う。 普段から、もっと楽しいこととか、そういう記録は大事だなとも思う。人間は忘れるので、ちゃんと残して置くと、あとから思い出すきっかけにはなると思う。
火葬した人はペット仏壇で検索するとフォトフレームつきの骨壷収めるやつがあるから便利だよ
骨壷の処理をどうしようかなあ、ホコリまみれになるしなあと骨壷をアクリルケースで囲おうとしたんですが、 ペット 骨壷 収納で検索していたところ、小さ目の仏壇的なものがあることを知った。 安いのだと5000円くらいであったりするので、今後まあずっと持っておくものとして、そのときに調べてもいいと思う。
写真はちゃんと撮影しておくといいよ
どうしても、後半の写真は少なくなっていた。もっと撮影しておけばよかったな、と思わなくもない。 病気と年齢で、だいぶみすぼらしくなっていたけれど、今思えば、やっぱりかわいいなと思う。 ので、個人的には2週間に1度、写真撮るタイムとか作ってむりやり写真撮りまくるといいと思います。
GooglePhotoの共有アルバムは便利だからAndroidユーザーは使うといいよ
GooglePhotoくんは人物やペットを勝手に判断してタグづけしてくれる機能があるが、それで写真をピックアップして共有アルバム化して家族と共有しておくと便利だと思う。 ついでに、今家にいる2匹の猫のアルバムも作成して夫と共有したが、夫が写真をとっても私が写真をとっても、撮影しただけで判断して共有アルバムに追加してくれて、さらに通知までくれるのだ。 問題としては勝手にタグづけがされるので間違ってるときは手動で削除しなきゃいけないこと。 あとフェレットはあんまり学習されていないのか、結構判別して入れてくれないので手動でいれる必要があるくらいか。(似た毛色だと間違って分類とかもありそう) うちは二人してメイン機がAndroidなので大変便利でした。
フォトアルバム作るならあとからページが足せるものがいいよ
NASとかDropBoxから写真をかき集めて、上の共有アルバムにぽいぽいいれて見直した。 多分、見返したくもなるだろうしそのときに便利だろうと思って、フォトアルバムも作ることにした。 最初はphotobackのアプリ版で作っていたが、maxでページ数が36ページで足りねえーーーーーとなったので、 結局は2枚ずつ足せるvistaprintにした。 vistaprintの方はアプリもあるが、「かんたんに選択するだけで!」を謳っているだけあって、 自由度がめちゃくちゃ低いので、PC版のアプリで作成することをおすすめします。 vistaprint、雑にページを足せるので後悔なく写真を詰め込めるのが良さな気がします。結局48ページにまで膨れ上がったので……
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photobackさんもPCから編集できるLIFEやBUNKOだと36枚以上行けるんだな。 photobackさん、値段はお安めという利点があるので、そちらも検討してみるといいと思います。 ただ写真が選べない気がする人は安易に足していけるvistaprint、おすすめです。
もしかしたら5年ごととかにアルバム作ったほうがいいのかなーーーーという気もしてきている。 増えて増えて選びきれる気がしない……
死に寄り添って感じたこと
私は今まで、親しい人の「死」にあまり立ち会って来なかった。 せいぜい、小学校のときに担任の先生が急死したこと(本当に担任になってすぐ死んでしまったから愛着もあまりなかった)、曾祖父ちゃんが5歳くらいのときに死んだという印象、高校時代に遠方のじいちゃんが死んだときに、母が泣いていた記憶があること(遠方なので母しか葬儀には行かなかった)、大学のときに中学のそこまで仲良くない同級生が死んだよとなんとなく聞いたこと、一昨年、父方のじいちゃんが「死んだよ」と報告されて葬儀にいったこと。 父方のじいちゃんが死んだときには、やっぱり少し悲しかったとは思ったが、あくまで事後報告であり、「葬儀にいった」といった感じだった。 本当に、「死の瞬間に立ち会う」のは初めてだったように思う。
本当にいろいろなことが頭をよぎった。 死にゆくものを撫でてもあまり意味はないかもしれないが、撫でるという行為に力があってほしいと願うこと。 少しでもこれで痛みが取れたらいいなと、それは残された者が少しでも最期のお別れに頑張ったと思いたいこと。
「虹の橋」とか「死後の世界」とかそういったものは、「今いなくなってしまった者たちが、幸せであってほしいから」うまれたものなのだと。 「消える」というのは、あまりに実感として辛いからなのだと。 だからこそ「弔う」のだと。弔いは残されたもののためにあるんだと。 古代文明で権力者に副葬品もいっぱいあるのも、その世界で幸せに生きていてくれと願うこと、 私も彼に、緑の芝でも掘って遊んでてほしいしうまいもんいっぱい食べててほしい、そう願っている。 今までばあちゃんが仏壇になぜわざわざご飯を飾っていたかわからなかったが、せめてと毎日水を交換している。
多分、「ちゃんと」死に立ち会えたので、とても私は幸福だと思った。 「最期までちゃんと見届けた」「私にできることは、多くなかったしやりきれた」そう思えると、少し楽になる。 逆に言うと「突然死」とか「失踪」とかは本当にやりきれないよな、とも思いを馳せてしまう。
とても悲しいけど、どこかすっきりとした気持ちだ。ただしとても悲しい。 こんなにも悲しいもんなんだというのを、痛感した。それこそ今まで、いろんなエンタメで死は扱われていたが、 実際に自分の真横で生きていたものが死ぬ、というのはこんなにも「悲しい」のかと。 こんな複雑な気持ちになるのか、とちょっと驚くくらい、悲しい気もちと、ああよかったなという気持ちでぐちゃぐちゃしていた。 ただ、一週間たって、うっかり泣く頻度もだいぶ減った。うまく、内面化できてくれているんだと思う。 まあ、たまにうっかり思い出の品が出てきて泣くかもしれないが、それはそれでいいんだと思う。
まとめ
そんな感じで、ちょうど3連休で、かたがついてしまった。しかも1日目は遊ばせてくれて、1日近く最期に寄り添えて、ちゃんと火葬までできた。 ろくに予定がはいってなかったというのも強かった。コロナ禍だしね。 しかもたまたま、年に一度あるかどうかの、クール便で荷物が届いた日だった。どんな偶然だよと今でも思う。 今までそんな空気読んだことなかったのに、なんて空気の読み方だと。 仕事中だったらきっと気が気じゃなかったし、有給は少ないのでハラハラしてただろうし。
まだ、ちょこちょこと思い出しては泣くこともあるが、概ね元気です。 なおこれを書いているタイミングでまた号泣したので、明日が怖いです。 文章化すると、やっぱりいろいろ思い出されて、感情が呼び起こされるなあ。だからこそ、書く意味があるんだなあ。 そんなことを思いながら、この記録を閉じようと思う。
世間ではお盆の最終日らしい。我が家ではいわゆる初七日が終わった。供養として、この文章が書き終えられてよかった。